Prime Interview 寺田悦子さん

祝!デビュー50周年 日々を歩み続けたピアニストの境地

掲載日:2019年5月18日

2019年にデビュー50周年を迎える寺田悦子さん。16歳でウィーンに留学、在学中の18歳、一時帰国の際にデビューリサイタルを実現しました。その時のプログラムがオール・ショパンで、今回演奏するピアノソナタ 第3番も含まれていました。留学中は、ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで入賞するなど、ショパンの演奏にかけて特に高い評価を得ています。今回のリサイタルでは、ショパンが愛した3人の女性にスポットを当て、その生涯を俯瞰するようなプログラムとなっています。キャリアを通してショパンを弾き続けた寺田さんが辿り着いた究極のショパン像、そしてピアニストとしての境地についてお聞きしました。
(取材・文:宮地泰史/あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール)

 

ショパンが愛した3人の女性にスポットを当てて

 

 

――デビュー50周年おめでとうございます。演奏活動を継続していくのはとても大変なことだと思いますが、その秘訣などはありますでしょうか。

 ありがとうございます。私はピアノを始めた時にはまさかこんなに長くピアノを弾き続けることになるだろうとは思ってもいませんでした。留学を終え帰国してからは、幸いなことに継続してピアノを弾く仕事がありましたので、目の前の仕事をひとつひとつ夢中で取り組んできた結果が今に続いているのかなと思います。昔は全てが自分を育ててくれる経験と思い色々な仕事をしましたが、最近は数をこなすより、自分が弾くべき作品を見定めてじっくりとコンサートに取り組もうと考えています。
 今でも、何歳まで弾き続けたいかを考えることはありません。反対にやめたいと思ったこともありませんが(笑)。弾き続けていく上で一番肝心なのは健康ですね。やっぱり。私はこれまで大病を患うこともなく元気にやってこられたことが継続の一番の理由だと思います。

 

――これまでの演奏活動の中で、一番嬉しかったエピソード、逆に大変だったエピソードを聞かせてください。

 私のピアノ人生では多くの素晴らしい師に巡り会えたことが幸運だったと思いますが、印象深いのはルービンシュタインのコンクールで入賞(※1)した時のことです。私にとって学生最後の年で、日本に帰ることを決めていた中でのコンクール挑戦でした。当時はまだ世界のピアノコンクールに挑戦する日本人は少なく、不安と緊張の連続でした。審査員席にルービンシュタイン先生(※2)が座られると、会場の空気ががらりと変わるのです。それは今でもはっきりと覚えています。そうした中で私は、特別な霊感というか、高まった集中力の中で演奏することができました。
 大変だったことは本当に色々ありますが、30代の時ドイツが東西に分かれていた最後の年に東ドイツで行った二週間に10回のコンサートというハードスケジュールは忘れられません。初めて弾く2曲のピアノコンチェルトを一夜で演奏しなければならなかったり、またその次の日は、移動した後にソロのピアノリサイタルがあったりと、とても大変なツアーでした。最後まで気力と体力が持つか心配でしたが、何とか無事に終われました。今だったらとても無理でしょうね(笑)。
 他に、これは今から10年位前の話なんですが、親指を骨折してしまったんです。大したことはないと思っていたら結構重傷で。その時はとにかく不安でした。医者には手術しなければ半年後にはペットボトルの蓋も開けられなくなりますよと脅されて。それで覚悟を決めて手術したんです。術後にギブスを当ててもらうのですが、その時、目いっぱい手を広げた状態で当ててくださいとお願いしたんですね。後で手が開かなくなったら困るのでと。そしたらお医者さんはそんな心配することないですよ。4、5ミリのことですと言うのです。それはとんでもないと。私はもともと手が小さいので、4ミリでも手の開きが縮んだら困ると訴えたんです。幸い手は元通りになったんですが、ピアノ人生最大の危機でした!

 

――今回はオール・ショパン・プログラムですが、ショパンとの最初の出会いを聞かせてください。

 中学1年生まで師事した近藤孝子先生のもとではショパンを弾いたことはありませんでした。先生はレオニード・クロイツァー門下のピアニストでしたが、ショパンは子供の弾くものでは無いという見識を持たれていたのだと思います。バッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンで古典を、そしてたくさんのシューマンやメンデルスゾーンの音楽を弾くことでロマン派音楽に慣れ親しみました。その後、田村 宏先生に師事してから最初にいただいたのが、今回も演奏する「スケルツォ 第1番」で中学2年生の時でした。練習曲やバラード 第3番も勉強しましたが、ショパンという作曲家を強く意識したのは16歳でウィーンに留学してからのことです。ウィーンですのでドイツものを中心に勉強するのかと思っていたら、最初に先生にいただいた曲がショパンの「24の前奏曲 作品28」だったのです。先生に「どのプレリュードですか?」と聞いたら「全曲」と言われて。レッスンではモーツァルトやベートーヴェンもたくさん勉強して持って行きましたが、なぜか一番褒めていただいたのはショパンでした。それからですね。私の人生にショパンが深く住み着くようになったのは。

――寺田さんにとってのショパンとは?

 ショパンの音楽には何より感覚的なものを感じます。その叙情性と情熱の対比、華麗な輝きはピアノ音楽ならではのもの。そして複雑な横線が織りなす独自の和声の変化はとても斬新です!
 メロディーラインだけでなく考え抜かれた内声の動きはショパンの音楽の深みに導いていると思います。ショパンがサロン音楽を超えて普遍的なものとして愛され続けている所以でしょう。
  

――これまでにショパンの曲を何度も演奏されたと思いますが、昔と現在で印象や解釈などが大きく変わった曲はありますか?

 日々、繰り返し演奏している中では、意識的に演奏を変えようとした事は殆どないですね。ただ、全く変わってないかと言われるとそれも違うと思います。私の演奏を10年ぶりに聞いたとすると、10年前より変わっていると思います。人の風貌も毎日会っていると変化に気づきませんが、10年ぶりに会うと変化を感じるでしょう。そういうことなのではないでしょうか。特に、私はショパンをずっと弾き続けているので、日々の変化を感じていないのかもしれません。ただ、テンポに関しては少しゆっくりになったかもしれません。また、昔は華やかな曲の方が好きでしたが、今はどちらかというとじっくりと味わえる曲の方が好きです。そういった変化はあると思います。

  

――今回のプログラムについて聴きどころなどを教えてください。

 今回のプログラムは、ショパンの人生に寄り添うような形で組んでみました。特に彼が愛した3人の女性にスポットを当てています。
 まずショパンの青年期、初恋の相手であるコンスタンツィア・グラドコフスカ。彼女はショパンがワルシャワ音楽院の学生だった頃に憧れていた女性でソプラノ歌手でした。ショパンのピアノ協奏曲 第1番 第2楽章は彼女の事を想って書かれたのではとされています。今回はその時期に書かれた「ノクターン 第20番」「スケルツォ 第1番」を演奏します。
 次に現れたのはマリア・ヴォジンスカ。彼女は古くから家族ぐるみで付き合いのあったヴォジンスキ一家の娘であり、再会をきっかけに交際を開始します。婚約にまで至りましたが、健康状態の悪化などの理由により破局。この時期に書かれた曲として、「バラード 第1番」を演奏します。
 そして最後は、男装の麗人と呼ばれたジョルジュ・サンドとの恋です。サンドとの恋は波乱に満ちていましたが、この時期には屈指の名曲が数多く生み出されています。演奏するのは、ノクターンの中で最も情熱的な作品「ノクターン 第13番」、そして「ポロネーズ 第6番 “英雄”」です。
 プログラムの後半は円熟期の充実した作品から、「舟歌」、そして私のデビューコンサートでも演奏した「ピアノソナタ 第3番」を演奏します。この曲は、自分の大事なコンサートでは必ず弾いてきた作品です。是非、皆さんにも楽しんでいただければと思います。

 

 

 

 

※1 ルービンシュタイン国際ピアノコンクール
イスラエルのテルアビブで3年毎に開催される国際ピアノコンクール。偉大なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインを記念している。寺田さんは第2回(1977年)コンクールで3位に入賞した。


 ※2 アルトゥール・ルービンシュタイン(1887- 1982)
ポーランド出身、20世紀を代表するピアニスト。特にショパンの演奏に対しての評価が高い。