ジャパン・ストリング・クヮルテット インタビュー

弦楽四重奏のコンサート&マスタークラス「Phoenix OSAQA」に取り組む ジャパン・ストリング・クヮルテット

掲載日:2008年3月10日

日本を代表するベテラン奏者による弦楽四重奏団「ジャパン・ストリング・クヮルテット(JSQ)」が3月25日(火)夜、ザ・フェニックスホールの舞台に登場する。フェニックスへの来演は1996年以来、通算10回目。節目の今回は長年、活動の軸に据えているベートーヴェン作品でプログラムを組んだ。国際級ソリストとアンサンブルの名手が共に奏でる「完熟」の演奏が楽しみ。特筆されるのは今回、関連事業として「Phoenix OSAQA(フェニックス・オーサカ)=弦楽四重奏を志す若者のための自由塾」が始まる点。若いカルテットを対象とするマスタークラス(講習会)が公演後の26(水)・27(木)の2日間、開かれる。参加は京都、大阪、東京、名古屋の9団体。指導の様子は公開し、最終日28日(金)午後には、受講生の修了コンサートも開催される(いずれも来聴無料)。ベートーヴェンの作品を携え、新たな活動に取り組むJSQ。東京・目黒でのリハーサルにお邪魔し、お話を伺った。
(ザ・フェニックスホール  谷本裕  写真も)
ベートーヴェンの真髄 追究
――ベテラン4人、弦楽四重奏の学び方もいろいろだったでしょうね。

菅沼 ボクが東京芸大を出たのは1961年。この時期は、学生時代はカルテット好きな者が集まって弾いてる状況だったね。卒業後も師匠の勧めで弦楽四重奏を続けた。ウィーンで学んだヴァイオリニスト日高毅さんらと組んだ「ディヒター弦楽四重奏団」などで弾きながら、勉強した。本格的に取り組むようになったのは巖本真理弦楽四重奏団(※1)メンバーになってから。N響に行くまで12年間、打ち込んだ。

久保 私は桐朋に居たんだけど、岩崎さんともども、斎藤(秀雄)先生から室内楽のレッスンを受けてた。アメリカの、ジュリアード弦楽四重奏団の初来日に合わせて、学校でマスタークラスが開かれることになった。先生の指示で、彼らの十八番であるバルトークの弦楽四重奏曲第4番を見てもらうことになったんです。でもその頃、私たちが手掛けていたのは、(技術的には比較的平易な)「ひばり」(ハイドンの弦楽四重奏曲第63番ニ長調)など。バルトークは、とてつもなく難しい。何とか準備してジュリアードのメンバーに聞いてもらったんだけど、通して弾くだけでも大変だったわね。

写真上/時には一音一音、意見を交わしながらリハーサルを進めるJSQ=2008年2月29日、東京・目黒
写真下/久保陽子

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久合田 私が芸大に通ったのは、もう少しあとの時期。室内楽の授業はあったわよ、必修じゃなかったけど。ルイ・グレーラーさん(※2)からモーツァルトやハイドンを習った。アメリカ留学から日本に戻ってからは、室内楽から遠ざかっていたんだけど、マリカル(巖本真理弦楽四重奏団の愛称)のチェロ奏者だった黒沼俊夫先生と知り合い、室内楽に取り組むようになったんです。菅沼先生のあとを継いでマリカルでヴィオラを担当した生沼誠司さんが高校の同級生で、巖本真理さんが亡くなった後、一緒にカルテットを15年間組みました。

岩崎 昔は、音大の学生はソロもオーケストラも室内楽もやるのが当然だった。それがある時期、ソリスト教育重視に傾いた。

菅沼 「室内楽は、ソロが出来ない者がやる」なんて偏見が強かった時もあった。でもね、芸大では昔から室内楽を尊ぶ気風がずっとあった。他の学校でも、次第に室内楽が重んじられるようになってきた。

久保 私は学校を出た後はソロばかりだったの。80年代、岩崎さんからムーンビーチ(※3)に呼んでもらうまで、室内楽は殆どやらなかった。

岩崎 あの音楽祭は、ボクがアメリカで出合ったマールボロ音楽祭(※4)が一つのきっかけになってる。1965年から3年連続で、夏に参加した。合宿して、ずーっと室内楽をやってコンサートを開く。来てる人がすごいんだ。ピアノのルドルフ・ゼルキン、ヴァイオリンのシュナイダー、フルートのモイーズ。素晴らしい演奏家ばかりだけど、「教師と生徒」の関係じゃなく、お互い一人の人間として室内楽を楽しむ、アメリカらしい音楽祭だった。すごい田舎でね。自然に囲まれ2ヶ月も暮らすと皆、子どもに返っちゃう。大の大人が食堂で白いナプキン投げ合ってふざけることもあった。あんな音楽祭が日本に欲しいなぁと考えているうち、ムーンビーチを開くことに繋がっていった。

写真下/岩崎洸

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久保 クレーメル、ギトリス、ピーナ・カルミレッリ(※5)。沖縄にも色んな名手が来たわよね。JSQのメンバーともよく顔を合わせたし、色んな組み合わせで合奏を楽しめた。お陰で室内楽に「開眼」できたわ。

菅沼 ムーンビーチは、東京芸大や桐朋をはじめ、いろんな学校の学生が交流できた。このオープンなやり方は、学生にとっても画期的だったんじゃないかな。今でこそ、夏にいろんなセミナーが出来たり、新宿で「プロジェクトQ」(※6)があったりで、切磋琢磨(せっさたくま)の場が広がっているけど、あの当時は、ほとんどなかったからね。
――「Phoenix OSAQA」も、そんな場を目指したいですね。ところで今回は、公演プログラムも、講習会も、ベートーヴェンの作品で固められています。ベートーヴェンの弦楽四重奏を学ぶ意味は?

久合田 4つの楽器が、あれほど対等に扱われる音楽は他にない。ベートーヴェンのスタンスが際立っているところね。

久保 他の作曲家には、腕の立つ第1ヴァイオリンと、まずまずの第2ヴァイオリンとヴィオラ、チェロが揃ったら、何とか形に成る作品もある。でも、ベートーヴェンはそうはいかない。奥が深い。取り組むうち、課題が限りなく出て来る。

写真下/久合田緑

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菅沼 4人の奏者が、同じニュアンスで一つの音楽をつくる。お互い聴き合って、譜面に忠実に。その難しさを習得するのに、ベートーヴェンの作品は打ってつけだと思う。

岩崎 彼の残した、様々な音楽表現に取り組むことで、他の弦楽四重奏曲に向き合う際のヒントやコツが身につくんだ。それと彼の場合、単純にみえる音の連なりの中にも精神性が確かに宿ってる。そこも他の作曲家と違うんじゃないか。

久合田 ベートーヴェンは若い時代から晩年まで、弦楽四重奏曲を生み出し続けたでしょう? 音楽がどんどん深くなり、表現も広がった。その幅は、例えば古典派のハイドンからロマン派のブラームスまでの、何人もの作曲家の歩みに匹敵するんじゃないかしら。一生をかけて取り組む価値が、絶対ある。

久保 本当に「バイブル」よね。演奏家は、若い時期から彼のいろんな作品に親しんでおくと良いわね。若さならではの、いろんな表現、アンサンブルの作り方ができると思うから。
久合田 ベートーヴェンの懐の深さね。今回、若い世代の「試みの場」に一緒に居て、何か言って上げられたら良いなと私、思ってるの。
岩崎 昔は、ベートーヴェンの後期の四重奏曲ともなると、「畏れ多い」なんて風潮が若い人にもあったけど、今は気軽に音合わせするようになった。大阪に集まる若者がどんなアプローチをするか、楽しみ。
菅沼 ベートーヴェンをいかに演奏するか-。最後に決めるのは、カルテット自身。自分たちに相応しい答えを、自分たちで見つけ出してほしい。彼らがそこに至るお手伝いをしてみたいね。

写真下/菅沼準二

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※1 巖本真理(第1ヴァイオリン)、友田啓明(第2ヴァイオリン)、菅沼準二(ヴィオラ。のち生沼誠司)、黒沼俊夫(チェロ)のメンバーにより1966年2月、ニッポン放送の「フジセイテツ・コンサート」で正式発足。古典から現代まで幅広いレパートリーを持った。67年から東京文化会館で年8回の定期公演を始め、79年の巖本の死去に伴う解散までに94回を数えた。名古屋での定期公演開催をはじめ、全国で公演を重ね、室内楽普及に貢献した。

※2 ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。トスカニーニの創設したNBC交響楽団コンサートマスターなどを経て来日。日本フィル、新日本フィルのコンサートマスターを務めた。

※3 正式には「沖縄ムーンビーチ・ミュージック・キャンプ&フェスティバル」。岩崎洸と、姉の岩崎淑(ピアノ)が1979年、沖縄・恩納村のホテルで始めた音楽祭。12月下旬、海外の優れたアーティストと国内の若手が集い、室内楽やソロの作品を演奏。景山誠治、向山佳絵子、漆原啓子らが巣立った。97年からは沖縄国際音楽祭として発展。

※4 米ヴァーモント州マールボロの大学キャンパスで6月から8月にかけ開かれる室内楽音楽祭。1951年創設。現在の芸術監督はピアニストの内田光子とリチャード・グード。

※5 イタリアのヴァイオリニスト。イ・ムジチ合奏団のコンサートミストレスを務めた。

※6 テレビマンユニオン(東京)を中心とする実行委員会が、若い弦楽四重奏団育成のため、新宿・芸能花伝舎を拠点に行う教育プログラム。多様な弦楽器奏者による公開マスタークラスと発表公演などから成る。